昭和49年08月02日 朝の御理解



 御理解 第18節 
 『此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。』

 人間誰しもが生神になれれる性というか、内容をというか、をもっておるわけであります。やはり、神々とこう、神様といわなければおられないものを現された教祖様が。なるほど生神様じゃなぁといわれるようなものを、現されたから生神、生神というといわれるようになった。現す力というものを頂く為に、私共はやはり教祖の、いいうならば御在られ方というものを、まあ身に付けると言う事に精進すると言う事が金光様のご信心という事になります。
 いわゆる実意丁寧でおありになったと。純粋無垢というか、本当に純粋なお方であったと。まあ、いろいろと教祖様のみ教えを頂き、または御伝記を読ませてもらい、「金光大神覚」などを見ると、もうそのまま教祖の神様のお人柄と言うか、それが感じられるのです。ですから結局、私共もそう言う様な在り方、いうならこう言う場合に教祖様はどうなさったであろうか、こう言う場合、教祖様はどういうふうなお感じになったであろうかと言った様な事をいうなら、明けても暮れても思い続ける事である。
 そしてたまにはです、自分の心の中に喜びを感じるとき、はぁ教祖様が感じられたというのはこう言う心でもなかったろうかと言う風にです、確かめていくと言う事。自分の心の中に有り難いものが湧いてくる。そういう私は精進をさせて頂いて、初めて教祖のご信心を体得するというか、分かると言う事が言えれると思んです。そこでならここでは皆さんが信心の稽古、教祖様のご信心の中にありましてもです、やはりその教祖の信心のすべてを頂けれると言う事だけのまあ、まあ不可能であります。
 けれどもせめてここだけぐらいはというものを頂くわけなんです。それをまだほんの一部の、一部を頂いておるのが合楽だとこう思うのです。いわゆる私だと思うのです。そこで、なら皆さんは合楽にご神縁を頂かれる方達は、なら私の生き方、私の在り方に純粋にならなければならないと言う事です。私が右と言えば、もう本当に右になってしまう、左にといや、もう本当に、昨日までは先生右といいよんさってから、また今日は左といいよんなさるなんてんと言う様な考え方ではなくてですね。
 今日なら昨日は右といい、今日は左と私がいうたとしてもです、本当にそれにサラッとこう入って行けれる純粋さがなからなければいけないと思うですね。最近二十五年の沈黙を破った合楽が、いうならば宣伝時代に入った、もう人を見れば合楽を宣伝しなければおられない、どうか言わなければおられない、それはねもうどういう人であっても、どういう人に、対してもお宣伝しなければおられない。これは例えばお導きというのと違うのです、宣伝なんですから。
 お導きというのは、そこに難儀な例えば様相、難儀な人があると、いわゆる同病相哀れむです。私もこげんしてからおかげを頂いたから、貴方もいっぺんお参りをしてごらんなさいというて、のがお導きですね、だいたいは。けれども宣伝です。吉井の熊谷さんが、もう、本当にその気にならせて頂いたら、もうそれを宣伝しなければおられない。それをお話しなければおられない状態に必ずなっていくとこう言われる。
 例えば毎日そのお届けがありますけれども、昨日は、昨日一日の朝お参りになった時もそのお話お届けでしたし、昼をお供え物を持ってみえてからのお届けもそれでだったし、夕べ月次祭に参ってみえてからもやっぱそうだったです。だからおかげを頂く人は違うと思いますよやはり。先日からこちらの霊祭の時に頂いておった御菓子が開いてみたらあんまり見事じゃから、まあ( ? )病院におられますまさふみさんの所へ。( ? )ぜんざいを食べたいと、この頃甘いものが欲しいというから。
 いいよったそうだから、これを持っていっていただかせてやろうと思うたらもう矢も楯もたまらん、心の中にそういう、まあ行きたいという衝動を感じられた。行ってから驚かれたことは、もう今までは様々な機械が周囲にずうっと、だんだんおいてあったね、酸素吸入の時は酸素吸入の道具が置いてある、白血病ですから、それに対する足元なら足元に機械を、向こうに様々な機械がおいてあって、すぐ今日(  ?  )、出来るようなふうにしてあったのが全部取り払われてしまっておるというのである。
 孫達がちょうど、たまたま東京かどっからかの方も、お孫さんもみえておって、三人が付き添いをしておる、付き添いをしておるというよりも、もう本を読を者もある、編み物をするものもある、まあまさふみはもう床の上でニコニコとして、まあ私の言ったことを、もう本当に二人見るように、そのもう何を頂いても美味しいと、もうなんにも治療をするというても、向こうの(  ?  )長い間休んでおられたから、足が弱いから立たれない、それはそうですね。
 私もあの北京におる時に病気しました、一月ばかりやすみましたが、たってもプラーンプラン倒れますね、立ち切らんです、そういう風な状態だろうとこう思います。そしてババしゃまがみえたもんですから、その四人の孫がもう、いやぁババしゃまがみえた、今ね、これが出来上がったから、ババしゃまに、あのここに来なさったら差し上げようというて、ハンドバックをなんか、そういう修行をしておられたお孫さん、もう今出来上がったところじゃった、良かったというて喜ばれる。
 そして四人の孫達が、神様のお話をしてくれ、神様の話をしてくれというて、そのせがむように言うから、もう、本当にどうしてこんなに口から、出るじゃろうかというごと、何時の間にこんなにおしゃべりになっただろうかというごと、お話をした。お話をすると今度は求めてくる、分からんところは聞いてくる、もうそれを心いくまで、話させて頂いたというのです。
 昨日昼お供物を持って、ちょうど四時の御祈念のちょっと前にお参りしてみえた、今日、こちらから帰らせて頂きましたら、もう私は三ベンもきました、町長さんもきなさった、久留米市長さんもきなさった、いくらいうたっちゃ久留米の方だれもおんなさらんがというて、そのまたその代わりの方がみえたとこういうね、どこにいっとんなさったですかち、いつ行ってんおんなさらんがちいうたら、それはあんたもう朝もお参りします、用があったらからまた昼も合楽に。
 というてその合楽に行ったお話をすると、合楽ち言う所はそげんなんところですかというから、ならちょっとおあがりなさいと言うてとうとうあがりこんで、またどれだけ話したんではわからんぐらいにお話をしたという。だから私はもう、例えばおかげを受けた話なんかというものは、もう、その都度々しなきゃいけませんですね、これはとっておいてからあと話、私はある先生が、あのとてもよかお話を聞いていただけん、今度話すというてから、月次祭にとっとこうという先生がある。
 それけん月次祭の時はもう気の抜けてしもうたお話が。だからね自分が今、有り難いと思うた事をもうそこで伝えた。だから私は今ここで有り難いと思うことは一人参ってきた人にでもそれを伝えるです。確かに二人、三人目には気が抜けるです。そこをもう昨夜でですね、もうむこうにかけられたバスに、乗られたバスに乗られた人のバスを、乗られた人もうとにかく行き交う人にです、そんかわりまあ例えばお参りの途中にですね、いつも( ? )に、この顔はもうかん顔しちゃる人達と会いますとね。
 その人に会うきっかけを作らせて下さい、お話をするきっかけを、作らせて下さいというて願うといわれます。それはもう、不思議なきっかけを頂かれる訳です。私がもう合楽は宣伝時代と言い出したら、もうどうかして宣伝をしなければおられないと、言う様な私は純粋さです。私は今日ここのところをです、「この方のことを神々という」というが、ならここんところを少し、「この方のことを大黒様々というが。」というふうにいうてもいいと思うんです。
 だから合楽に参ってくる人はみんな大黒様の内容というものを金光大神の内容と同時にです、またそれを金光大神の内容のすこうし頂いておる私、そのすこうしを頂いておる私がどう言う事かというと、神様がこれはもう20数年前に、いわば大黒様をもって表現してくださった。それでそれを、それが段々実際に現されるようになったと言う事はどう言う事かというと、大黒様の持ち物である所の、打ち出の小槌である。
 これは金だけではありません、人間幸せな幸せになる、条件のすべてがです、この打ち出の小槌ひとつで、打ち振り出されるほどしのもので、なかなければならないと思うです。私がお茶がほしいと言うたら、お茶が集まりだけではない、もうそれがちゃんと、甘いものまでついてくる。お金がいくらいくらいりますよといわれたら、なら神様に願いしとこうというただけです、必要な金が、必要に応じて、打ち出されてくるという、いうならば、おかげです。
 この方のことを大黒様、大黒様というが、合楽に参ってくるみんなも、大黒様の内容を持っておるんだと、言う事になるのです。そこでそんなら、大黒様のいうなら、在られ方というものを、皆さんが身につけなければいけんと言う事になる。ならその大黒様がどう言う様な信心をしたかと言う事は、皆さんがいつも聞いて下さるとおりでありますけれどもね。私は自分で自分のことを言うとおかしいですけれども、私はそういう意味で非常に純粋だと思うんです。
 もう例えばこれは神様からだけじゃないけれども、右といわれりゃすぐ右につかわってしまう、左といわれりゃすぐ左に変わってしまう、そういうものをいうならまあ一面そういうところを馬鹿なところがあると自分でも思うです。昨日一昨日、私は久留米のいわゆる、市長さんにお話をさせて頂く時、もうそれは自分本当に思いました。私はどうしてあげん替われるじゃろうかと、今は今までは平身低頭違う、皆さんのなんですか、お参りになっても向こうの願い事を聞くだけ、お話を聞くだけでしたのが。
 もう昨日一昨日などは、もうとにかく一言も向こうにいわせんぐらいにお話をおられる間はさせてもらい、いわゆる、合楽の宣伝を一生懸命させて頂きました。やっぱおかげを分けけます、受けられます。本当に帰りにはいよいよ、合楽を久留米市内に、久留米市に現させて頂くというて帰られました。と言う様にですそう言う所がね、私は大事だとこう思うのです。そこでです、なら私が申しております、なら本当に一つ宣伝、それこそ熊谷さんじゃないけど、祈りに祈ってです。
 そういうふうにおれば、もうこちらがお話をせにゃ、いや向こうの方からそのきっかけを作って下さる様な働きが必ずあると言う事実を体験するだけでも素晴らしいです。私が最近申しております、16日の御大祭、御大祭にはせめて10人ぐらいは宣伝しておきたい、せめて5人位は一緒にお参りをしたい、私はそういうふうに申しますが、皆さんはどうでしょうか、本当に今度の御大祭にはせめて10人ぐらいには本当の宣伝をさせもらわにゃんと思うた方がどのぐらいあるでしょうか。
 ただお話として聞き流しておられるでしょうか。先生は赤といいござるから、本気で赤になってしまおうと思うたでしょうか、なら誰に話そうか親戚の誰にも話そう、友達の誰にも話そうとその事を祈っておられる方が幾人あるでしょうか。祈っておられる方は、もう大黒様になれる素養もっておられる方です。それをただ話として聞き流して知っておる人はまだ、それだったらいつまでたったちゃ、いくら大黒様を頂いて帰えたっちゃ、そんなおかげにはならんと言う事です。
 それはそれはね、なら熊谷さんの大黒様の、いわばおかげのまあ第一号というふうに夕べもお話をしましたがね、大黒様をお祭りしたあくる日に、二百万円入ってきたね、あとまあ800万ですか、入ってくるようになっとる、そのね千、百万という金が入ってくるとは、もう入ってこんはずのものが入ってくるごとなったですよ、勿論それには十年余りの神様任せの働きがあったからですけどね。
 もうそれはもう話を聞くと、もう恐れいってしまうです、それがならここで大黒様のあぁいう話がある前後から、もう急に話がそのことになったんです、それはもう本当に恐ろしいごたる働きだったんですよ。2反の田んぼをもっておる、もう勿論小作に出しておられる、ですから、今小作と地主もう小作が作るなら、もう権利はほとんど小作にあるといわれておるでしょう、だからその当時、例えばその土地を売るといわれても、それこそもう、本当に涙金をもらうぐらいなこっじゃった。
 それがいうなら10年なら、10年余りあの神様に任せきりておられたところに、その田んぼを作っておられた方に息子さんが、大変まあ不良ですね、不良になってそして、もう家も屋敷も売ってしもうて、もうどうにもできんから、自分がこの小作権を売ってからでもと言う事になったんです、それでその借金払いをするためには600万のお金がいる訳です。それで熊谷さんの所にそのお願いにいった、丁度農協でしたかね、農協その隣の農協のなんか敷地があるです。
 そこへこう続いてくるのをでけるというので、相談にみえられた、だからもう税金もなんにも、なら熊谷さんの所の手取りが千二百万か、千百万か二百万だったでしょうか、実際は千百万でしたけどね。だからその600万を入れると千七百万ですかね、小作人にも六百万あげられた、自分方は千大体そげな、どげんみたって2反の田んぼですよ。そういう働きというものがですね、まだその本当に一時はですつい4、5日前まではね、もうあぁそんなふうならもう売りませんちいうてから断ってしまわれたんです。
 それはもう面白い働きが始まったんです、だからもうそんなら熊谷さん断ってしまいなさいと私は言いました。もうほとんど話が出来とったんですからね、ところがです向こうの土地が、もう熊谷さんには言わずに、向こうの小作のところへあんまり金が要るもんだから、もう売れるもんと売ってもらうもんと思うてから、200万もう手付うっちゃった。だからさぁこれで熊谷さんがこんどはもう売らんちいいなさったもんですから、もうどうにも出来なくなったです。
 さぁそれでそれこそ組合長さんから町長さんまででらっしゃらんごつなった、もうそれはもう本当にゆとりのある、取り決めであったし東京の息子さんが、大阪ですか徳則さん、一人息子さんがおられますから、あちらへ連絡をとりとり、でそういうふうに話が決まった。組合の事ですから、お金は私共に預けち下さい、いんやお金は私はほかんところに預けにゃんけんで、なら200万だけは預けましょう、後は私がよかごとしますというようなことまで決まった。
 それは合楽の関係の銀行に預けたいという願いあったからなんです、まあ余談になりましたけれどもです、なるほどいうならば、あの私の信心に熊谷さんがどれほど純粋であるか、そこにそれこそ女子大黒様が生まれなさったと言う事が言えるじゃないですか。最近が熊谷さんが言われる、ここ一年余りいわれる、いわれることは、もう本当に必要なものが必要に応じてという言葉をそのままにおかげを受けておられます。
 ですから例えばです、私がなら宣伝時代と言う事をこういうふうにいいよるから、本当に本当に宣伝させて頂こうという、いう祈りがその場に出来てるほどしの純粋さがいるということです。結局ここに参ってくる人はみんな大黒様だと、になられるいうならば、内容を持っておるのですから、そんならその大黒様の真似をしなければいかん、その大黒様の在られ方を見習わなりゃいけん。私は大変始末倹約です。ただ美しいという人はありますよ、けれども自分のことにも美しいです。
 お金なんかすぱっすぱっ、きれいに出す人がありますよ、けれども自分のことにもがんがんだすです、これでは大黒様の徳は受けられません、それこそ自分の方は始末倹約させて頂いて、いよいよ出さにゃんほうにはきれいに出す生き方、これも私の真似をしてくださらなきゃなんならば、真似して頂かにゃんならんことです。そこへんのところをです、真善美というような御理解を頂きますから、この頃もです。
 昨日一昨日でしたか、もう末永先生がお金を預けたとを、金が足りんごとなったから金をとってもいいでしょうかというふうに。それはあんたがとるから取ってもよかどころじゃないけれども、例えば只今修行中でございます、それでその修行中のものがです、例えばそのそげん金足らんごたる金に何に使うかと。この頃からもいってました、もうこの頃は親先生が真善美、真善美といわれるから、私はここへ7年か修行させて頂いとる間に理髪店には三回行っただけです。
 何の時に一回行っただけそれから、結婚式の時にこの頃一回、それで今日で三回目でございますというてこの頃発表しました。親先生が真善美、真善美と言われるからね、やっぱ美しいなったがよかろうと思うて散髪屋に行ったと、そげなこつしよるけん金がたらんごつなるとです、丸ボーズをつむとに何が真善美ですか、ハイカラどんこげんやってぴしゃっとしてね、するならなかなか素人ではできませんでしょうけれども、丸ボーズするとに、ちゃんと電気バリカンがあるのですから。
 素人でもあれと同じぐらいにはつめれるようにあるのですから、私はねこの真善美と言う事なんかでも、自分のね例えば一つの道具でも使わせて頂くでも、私はほんなもんがすきですから、ほんなもんをが好きですから、例えばプラスチックなんかのものは好きませんですよ、けれどもプラスチックでなかければ出来ない時には、やはりプラスチックの道具を使います、同じ例えばお盆一つでもです。
 例えば美しいという観点ならば、そのもうほとんどですね、いうならば見た目にはプラスチックやらほんなもんじゃ分からんぐらいに良いものがでけておるのですから、そのいうなら、けんない自分が頂いておる力の範囲で美というものは追求し行かなきゃ行けんです。先生が美の事を追求しろといわっしゃるから、自分には身にも合わない着物を作ったり、道具を買うたりもうそう言う事は、もう絶対大黒様にはなれません、そう言う事では自分が頂いておる、いうならけんないとかね。
 範囲というものを知らなければいけません、だからね真善美といわれたら、もうほんにいっぺんにぱぁっと、そのいわゆる梅の花の信心を止めて、桜の花の信心にいくような感じが、そういう傾向がありますね、梅の花の信心にいわば変わりはありません。神になれとか華やかになれと言う事じゃないです、だから私を真似してくださるならば、なら親先生がどれだけ始末倹約の人かと言う事をです、私がいつもこの身をもって申しますが、ちり紙でもなんでも私はこんなにして使います。
 もうちり紙半枚だって粗末にはなりません、もうハンカチなんかでも何年も、何年も今度つくらせておりますからね、毎日代えますからそれは皆さんがごらんの通りです、私はここの反古紙一枚でもです、決してあの新しい紙は使った事がありません、それだから見苦しいとか、汚いとかとは思わんでしょうが、汚い事は嫌です、だから一つ大黒様の真似をして下さるなら、今日私はまあ皆さんが他にいろいろ発見して下さったところから頂いてくださればいいですけれども、まず私は第一始末倹約者であります。
 同時に私は、自分の事をいうてはおかしいですけれども、私は純粋です、右といわれりゃすぐに右となれれる内容をもっております。ここに参ってくる者はみんな大黒様の内容をもっておるんだと、また事実そうなんです、ですから本気で大黒様の在られ方と言うものを身につけなければ大黒様にはなれませんよね、よかところ、悪か所は私いっぱい持っておりますけれども、その本当に大黒、はぁこれが大黒様の内容だろうと皆さんが思われる所は、私はそれこそ、教祖様の信心をするためには。
 教祖の信心の在られ方を身につけなければならないように。合楽にご神縁を頂いて、私が合楽にです、貧乏どもする人があってはならないと言う強い祈りを持っております。ですから、皆さんが必要ないうなら、つこうてへらぬ金百両の徳を受けてくださるならばです、いうなら、私の在り方と言うものを身に付けて下さらなければいけんのですね、そこからです、皆もその通りのおかげが受けられると言う事になるじゃないでしょうかね。
   どうぞ。